江戸前芝浜落語会

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当山境内には、職業的噺家の草分けとされます、初代 立川談笑が埋葬されております。平成二十四年、この墓碑を改修させていただき、江戸落語を愛する多くの方々にお参りいただいております。
同年、十二月八日には墓碑の改修を記念して「 第一回 江戸前☆芝浜落語会 六代目談笑独演会」を開催いたしました。
「第一回 江戸前☆芝浜落語会」の演目、また落語会の題名にも引用させていただいた落語「芝浜」は当山の直ぐ近く、現在の本芝公園辺りが舞台となっています。
また、当山の付近には、過去には若松亭、七幅亭、喜笑亭といった寄席も点在しており、江戸落語との縁を感じ得ずにはいられません。
(本芝公園、寄席跡については、当ホームページの「付近散策」をご覧ください)



復元墓碑 ご案内板より
初代立川談笑は、鉄砲町(現在の中央区日本橋本町付近)の住人で、本名を足袋屋庄八という。生年は不詳。江戸落語中興の祖、初代烏亭焉馬(立川焉馬)に入門。寛政十三年(1801年)正月二十一日、両国尾上町の柏屋での「立川社中話初めの会」の場で式亭三馬より、立川談笑と命名される。文化二年(1805年)より草創期の寄席に出演し、初代三遊亭圓生、初代三笑亭可楽らとともに、「職業的はなし家」の草分けの一人として活躍した。文化五年、尾上町柏屋吉五郎方にて咄の会を開催。文化七年(1810年)十二月二十七日、歿す。

平成二十四年十二月八日
初代追悼落語会砌 六代目 立川談笑 誌

落語「芝浜」のこと

一説には、三遊亭円朝が三題噺の「酔っぱらい」「皮財布」「芝浜」のお題から作ったものともいわれている、ベートーベンの第九のように、年の暮れには欠かせない有名な演目です。
 金杉に住む魚屋の男が、仕入れに向かった芝浜の魚市場で市場が開くのを待っている間に、砂浜に皮財布が落ちているのを見つけます。
 中を見ると大金が...、男は大喜びして家に飛んで帰り仲間を集めて酒盛りを始めます。
 翌日、二日酔いで起きだした男に女房が、こんなに大酒を飲んで支払いはどうするのかと迫ります。
 男は拾った財布のことを話すが女房には信じてもらえず、家中を探し廻ますが見つからず、とうとう夢だったのかと諦め、それ迄の生活を反省し、断酒して懸命に働き始めます。
 数年後、生活を改め懸命に働いた結果、男は自分の店を構え、収入も安定する迄に成功していました。
 大晦日の夜、男はそれ迄の女房の献身に感謝します。すると男の女房は話し始めるのでした.....。

烏亭焉馬のこと

本名は中村英祝。立川焉馬、 通称で和泉屋和助とも呼ばれました。
 代十一代将軍、徳川家斉の治世のころ、天明-寛政-享和-文化-文政年間。
 化政文化の灯が見え始めた頃、狂歌の世界でも有名になっていた、戯作者・浄瑠璃作家の烏亭焉馬(うてい えんば)が主催する「咄の会」が始まりました。
 当時は「落語(らくご)」という言う言葉は一般的には使われておらず、「咄(はなし)」あるいは「噺(はなし)」と言っており、江戸では「落とし咄(おとしばなし)」と言われることが多かったそうです。
 「落とし咄」はそれまでは、常設の会場などで行われることは無く、「辻咄」と呼ばれる神社の境内等に簡単な小屋をこしらえて、いくらかの金銭をもらって「落とし咄」を披露していました。
 後の「職業的な落語家」や当時の文化人なども多数参加した 烏亭焉馬の「咄の会」では、新作の落とし咄が生まれていました。(当時の新作落とし咄は、現在ではまさに「古典落語」です)
 当山に眠る初代立川談笑は、この烏亭焉馬の一番弟子でした。
 歌舞伎の木戸芸人(入り口で役者の物まねなどをして呼び込みを行う芸人)から転身した、芝居話が得意な三遊亭圓生など、落語界の中興の祖ともいわれた烏亭焉馬はこれら多くの芸人たちを庇護していたのです。

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