縁起 | 日蓮宗 松流山正伝寺

松流山正伝寺略縁起
(しょうりゅうざんしょうでんじりゃくえんぎ)

 当山の開創は、慶長七年(1602)にさかのぼります。当山はその昔、豊臣秀吉や徳川家康等の時代に活躍した名君である、第百七代天皇、後陽成帝(ごようぜいてい)が晩年の一時期を過ごされた草庵に始まると言われます。
 その後、この草庵は九州松尾山光勝寺(まつおざんこうしょうじ)(日蓮宗)の江戸出張所として改められ、松尾山十九世、尊重院日億(そんじゅういんにちおく)上人によって「松流山正伝寺」の名で正式に建立されました。
 当山を代表する守護神は、開運大毘沙門天王(だいびしゃもんてんのう)様です。毘沙門天王は、須弥山(しゅみせん)(私たちの住む娑婆(しゃば)世界の中心にあるとされる高い山)の北側の中腹に住み、娑婆世界を守る役目をもつ神様です。のみならず、とくに法華経を信じ行ずる者を守護する誓いを立てた神様でもあります。
 当山の第七世、普明院日榮(ふみょういんにちえい)上人は身延流の祈祷の秘法を受けた大験者(だいげんじゃ)でした。日榮上人は、摂津(大阪)梶原の一乗寺という寺院の住職も兼任していました。この一乗寺には、伝教(でんぎょう)大師作と伝えられ、久遠成院日親(くおんじょういんにっしん)上人(室町時代、日蓮宗を盛んにした行者)が開眼(かいげん)された毘沙門天王が二体ありました。そこで日榮上人は、東国江戸における根拠地である正伝寺の興隆を祈って、二体の毘沙門天王のうちの一体を正伝寺に奉安しました。文化の中心地、江戸に移られた毘沙門天王様は、以前にも増してその霊験をあらわし、参詣者が江戸中から集まり、とくに初寅(はつとら)の日には目を見張るほどの活況を呈し、「江戸三大毘沙門」の一角と呼ばれるようになり、江戸城大奥の女官から吉原の女郎衆まで、広く庶民の信仰を集めたのです。その当時の隆盛の様子は「江戸名所図絵」等、多くの文献によってしのばれます。
 当山では現在でも、正月・五月・九月の初寅の日に、毘沙門堂において御開帳と御祈祷をおこなっております。

沿革など

【住職名】   43世 田村完浩
【旧本寺名】  中山法華経寺
【旧寺格】   紫 親師法縁
【本尊勧請様式】一塔両尊
【祖像】    説法像
【尊像】    毘沙門天像

 慶長7年(1602)の創立。開山尊重院日億。
 7世普明院日栄が摂州梶原の天台宗金仙寺(改宗して一乗寺)より毘沙門天像を当寺へ奉遷、天保年間に繁栄した。
関東大震災及び第二次大戦で焼失し、昭和50年に一階庫裡・二階本堂を建立する。
 1世尊重院日億は佐賀県光勝寺19世から。
 7世普明院日栄は梶原一乗寺6世から。
 32世観明院日済は柴又題経寺16世へ。

合 掌
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松流山

当山の山号「松流山」は、九州松尾山光勝寺の「松」の字をとり、その流れをくむ寺院として、日億上人によって名付けられました。

旧本寺名

江戸幕府は各宗派の寺院を管理するために、本山(本寺)ー末寺と全国にたくさんある小さな寺を宗派ごとに有名で大きな寺の傘下に入れて寺院の統制をはかる制度=本末制度における、末寺の本山を本寺名という。本末制度は昭和十六年に解消されたため「旧」となっている。

旧寺格

江戸時代に定められ、昭和16年に解消された本末制度における寺院の格式で、総本山—大本山—本山の下位に属する寺院の各を「紫」「緋」などで現した。法縁はいわゆる一般の「学閥」に近いもので、弟子を育て、その弟子がさらにまた弟子を育て...というような関係でできている。

一塔両尊

日蓮上人が法華経の仏の世界を文字で表した十界曼荼羅を象徴した南無妙法蓮華経と書かれた多宝塔と、両側にお釈迦様と多宝如来像を配置した、ご本尊の形式。法華経の第十一品 見宝塔品(けんほうとうほん)には、お釈迦様が説法をしているとき、地中から宝塔が現れ、同時に現れた多宝如来がその説法を讃え自分の隣に座るようにと奨め、説法を続けたとあります。